SSブログ

2008 今年一年を振り返る [コラム]

■ほとんどエントリーを書いていないけど、一年を振り返ってみる。

今年の始めは、そういえば休職してましたね。
思えばかなりマイナスな所からのスタートでしたが、人生において非常に意味合いの深い始まりとなったようで、実際に物事が大きく事が動き始めた一年となりました。

そして、自分のテーマとしてやっていたこのブログを改めて振り返ってみると、2007年11月~という1年以上の時間がかかっていますが、確実にあの頃やりたいと思っていた事が具体的に進行し、実現に向けて動き始めています。

今年最も大きな事はやはりcurrencybuilding氏との出会いでしょう。
これまでも私の突飛な考えに理解を示してくださる方や、興味を持って頂いた方は多くいらっしゃいましたが、思い描く未来への疑問や、こういう風になるといいよね、というビジョンの強い共有、そしてやはり共に事を始めてみよう、という仲間を見つけた事は、全ての物事を一気に加速させてくれました。
普段こういう事は言いませんし字にもしませんが、彼にはものすごく感謝しています。ありがとう。


■プロジェクトの始動

実はブログでは書いていませんでしたが、既に何人かの参加者でグループを作り、プロジェクトを具体的に進めています。

週一ペースでのcurrencybuilding氏とのskypeミーティング、
はてなグループやgoogleドキュメントを使った情報の蓄積と共有、
特にskypeとgoogleドキュメントを使ったミーティングは、会話や議事録記録などもでき、物理的な距離を感じさせないコミュニケーションは、現代だからこそできる新たなスタイルでしょう。しかもこれ、ほとんど無料というのが凄い。

そして、狙い澄ましたかの様に既存の通貨システムの欠陥が露わになった金融危機。なんというか自分がドラマの中の主人公でもあるかの様に、多くの人の関心が既存の通貨システムにに向き、これまで細々とやってきた私たちの試みに、多くの方に関心を持ってもらえる時が来た様な気がしています。

11月にはエンデの遺言にちなんだ勉強会を主宰させていただき、ひできさんのお力により様々な立場の方が一堂に会し、ともに学べるという機会を持てた事は、さらに物事を一つ先へ進めてくれた様です。
勉強会後のmixiのコミュニティの異様なほどの盛り上がりを見ると、自分たちの投げた石がここまで大きな波紋を呼ぶとは嬉しいやらちょっと怖いやらでした。

そして勉強会を境に更に多くの方が私たちとリンクを作ってくれました。

12月にはゲゼル研究会の講演と懇親会に参加させていただき、そこでもまた新たな人のつながりを持てた事は、私たちの素晴らしい財産となりました。

思えば今年一年は通貨の関する事で本当に多くの方と出会い、お話ができた一年だったと思います。


■2009年は『より語る』そして『作る』へ

そしてcurrencybuilding氏と二人で企画したネット上で利用可能な疑似的な通貨システムの企画『Happy』は日々具体性を持たせる為、現在絶賛設計中です。
これをなんとか2009年中には、ネット上に公開して、多くの方に使っていただける様にしたい。そしてさらに多くの方との出会いを持ち人のつながりをどんどん広めて行きたい。
というのが2009年の目標です。(現在画面設計で自分のデザインセンスのなさにヘコみ中なのでこのエントリーを書いている、新時代を築く革命的なデザイナー募集中です(笑))

これまでは、このプロジェクトもとても緩やかで、たまに気の向いた時にでもやるか。というものでしたが、今はちょっとの時間を見つけては、コツコツと作業をするようになりました。自分にとってこれはものすごい変化です。

いままでそういう自分になれない事がコンプレックスや悩みだったのですが、そんな事を気にしなくなってからの方が、結果的に自分から進んで物事を進める時間が多くなりました。気分が乗らずやらない時はやらない。ちょっとだけやりたいときはちょっとだけやってみる。この繰り返しが良かったのでしょうか。いや、やはり人との出会いや繋がりが、自分を後押ししているのでしょう。

という訳で無理をしない程度で来年もコツコツとプロジェクトを進めていきます。
身近な人や職場をはじめ、ご協力を頂いている多くの方に感謝を込めて。

2008/12/31 さかまた
タグ:コラム
nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

肩の力抜けてる?と自問してみる [コラム]

今だけかもしれないが、結構良いバランスいい感じ。

実はできる範囲の事で、事を始めようとパワポで資料を作りだしてます。
ペースは遅いけどコンスタントに充実してきているので
今の間に自分に問いかけられる心構えを書いておこう。

■無理をせず、肩の力を抜いて、出来ることを出来る時に楽しみながらやる。
楽しくなくなったり、意地やプライドでやったり、到達できない目標に焦りを感じた時はやめる事。 そうしないと、客観的に自分の心の状態を見れなくなってハマる。


■長い道路を掃除する時こそ、足元だけを見て確実に奇麗にして行こう
エンデのモモにそんな心構えのエピソードがあるらしい。 今できる事を確実にやる。道路の果てを見ると、これからやる事を想像してやる気がなくなって 達成できない気持ちになる。そんな時は足元だけを見て着実に掃除を続ければ、 気付いた時には終わるという。


■信頼できる人に話を聞いてもらう
会話の持つ力、人からもらえる意見や言葉、信頼感の力は自分の行動の原動力になる。 共感をもらえた事は自信を持って少しずつ掘り進めてみる 。


■メディア表現に頼らず言葉にしてみる
人に何かを説明する時は、悪いけど俺オンザステージに付き合う覚悟をしてもらい、 とにかくしゃべりたおす。1万行の文章や、すごいプレゼン資料より、きっと意志や意図が通じる。ハズ。


■自然体を意識したらそれは自然じゃない事を意識する
難しいなコレ。理屈はわかるが実践出来たら宮本武蔵もビックリだ。 嫌な事はなるべくやらない、好きな事はより楽しむ、無理をしない。みたいなことかな?


■何の為にやっているのかたまにでいいから自問する
生きていると無駄な事や嫌な事も多いけど、ネガティブな気持ちや苦しい状況や先の見えない 正体不明の不安に支配されないように。不安は自分が作り出した妄想である事がほとんどらしい。 妄想するくらいなら推理をしよう。推理とは今ある事実を客観的に多く集め、予測をすること。 そこに感情を差し挟んじゃダメ。主観を入れない、なんていうのはそもそも無理だけど、 なるべく主観が無い状態を頭の中に作り出すのが大事。 足りない情報は調べたりコミュニケーションによって集めて行こう。


■誰かの意図に乗せられて苦しい思いをさせられない事
身も蓋もないが国家や組織、団体や集団、そして個人に関わらず、自分以外の人や人の集団は、 知らず知らずのうちに私やあなたの行動を支配しようとしている。 (つまりは私も私のこの文章もそういう意図を持っている) 人はお互いにより多くの相手に自分の意思や意図を伝え、自分の思い通りにして欲しいと 願う生き物だという事を認識し受け入れよう。 その中で自分自身や、お互いや、社会の仕組みと、どう向き合ってラクに楽しく生きようかと、 たまにでいいから考えてみる。



うーん。

こんなの書いてるようじゃ、まだまだ肩の力が抜けてないっすね(笑)

ゲームはたまには一晩中 [コラム]

ああ、徹夜ゲーム明けで書いた文章だからかなりやばいかも、でも今のキモチを留めておきたいのでとりあえずアップです。

 

前回ゲームが「自分には郷愁でしかない」とか書いといてなんなんですが…。

やはり仲間が集まってわいわいとゲームで遊ぶ事はとても楽しい。

実はさっきまで久しぶりに友達の家に集まって一晩中ゲームをやっていたのだ。でもそれはゲームそのものの面白さというより、集う「場」の面白さがまずあって、そこにゲームという触媒があるような状態。仲間がいることではじめてゲームが純粋に楽しくなるという感じ。

実はこのゲームが作る「場」の楽しさというのは、実はつい最近、ゲームの世界でパラダイムシフトを起こしたのではないかという事を今考えている。

つまりネットゲームの存在がそれにあたるんじゃないかと。

これまではゲームの画面の外にあった人同士の「場」の楽しさが、ネットワークゲームの登場で「場」の楽しさ自体が画面の中に現れ、任意の人とも友達とも場が共有出来る様になり、さらには「場」自体がゲームの中に構成されるようになり、人との関わり自体がゲーム化したと考える事が出来る訳だ。(この辺はいずれ詳しく説明するかも)

これは自分の様に今までゲームの作る「場」に魅力を感じていた人間や、「場」の面白さに気付いてしまった人にとっては、ハンパじゃないドラック以上にヤバイものじゃないかと思うのだ。

実はインターネットを使用したネットゲームが台頭してきた頃、本能的に「これは本当にヤバイ」と思い、ネットゲームの情報をあえて見ないようにしていたことがある。当時は経済的な理由もあったのだが、もしあの時に余裕のある生活をしていたら、自分はおそらくあまりのハマり様に廃人同様になっていたのではないだろうか。それ位ゲームが作る「場」の楽しさに魅力を感じるのである。

誰かの家に集う事はやがて「お開き」になることで強制的に日常に帰る事が出来る。しかし、ブロードバンドや光通信で繋ぎ放題になった日には、それこそ歯止めが利かなくなり、多分廃人になるまでやりつづけてしまいそうな気がする。自分には韓国でネットゲームにあまりにハマり、過労死する人の人の気持ちがなんとなく判ってしまうのだ。

そんな訳で去年、ゲームではないブログやSNSといったものが縁で、ネットで知り合った人たちの「場」というものを見つけられた事、そしてゲームで友達との「場」をいまだに共有し合えた自分は、本当に幸せで運が良かったなあ、と思う次第なのです。


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:ゲーム

ゲームは一日一時間 [コラム]

と、昔から高橋名人が言っていたが、そんなの守った事なんで一度もなかった。

思えば、時間が有り余っていた頃は、それこそ寝る時間以外は全てゲーム!でもOKな位好きで好きで、狂った様にやった時期があった。よくもまあ集中力が続くもんだと我ながら飽きれたりした。

でもイザ自分が作る側の立場になると、必然的に遊ぶ時間が無い事や、作り手の苦労や意図までが読めてしまってきて、心から長時間ゲームを楽しめなくなってきたのだ。

また、ハードの表現力や技術力が進歩しても、そこにエポックメイキング的なアイデアと面白さの提示と、ユーザーに対する細やかな配慮が無いと、結局購入する事もコインを投入する事も無くなってきた。ゲームに対する見方が厳しくなってきたのだ。

そしてよほど気になるものでも無い限り、新しいゲームを購入する事は無くなり、たまに突発的に遊んでも、それほど深くハマらなくなっていた自分に気付いてしまったのだ。

昔は本当に好きで狂った様に遊んでいたゲームが、いつの間にか単なる「暇つぶし」や「現実逃避」といった、ごく普通の人のゲームに対する感覚に近いものに変貌していた。

最近では新しく買ったゲームも、一度クリアしてしまえば全く手をつけなくなったし、全ての選択肢を試したいという欲望も消え果てて久しい。そしてゲームクリアを目指す熱意すら、最近ではほとんど無くなった様に思う。

もっと上手くなりたい。
次のラウンドを知りたい。
この先どんな仕掛けが待っているんだろう。
どんな風にドキドキさせてくれるんだろう。

中学生の頃、友達の狭い部屋に大勢で押しかけ、かわりばんこで必死にクリアを目指した。
高校生の頃、友達に連れられて行ったゲームセンターで、体感マシンに度肝を抜かれた。

でもゲームであんな気持ちを味わう事は、おそらくもうない。

そう、たぶんあの頃のゲームには素敵な未来がたくさん詰まっていたのだ。
新作事に目を見張るようなアイデアが詰まっていたのだ。
新作事に度肝を抜くような技術革新があったのだ。

夜中に空腹で冷蔵庫を物色するように、今でも昔のお気に入りのゲームを引っ張り出すのは、たぶん単なる郷愁でしかないのだろう。

ゲームの世界では今も新しい技術やアイデアはどんどん出ている。
でも、それはあの頃の無邪気なゲーム少年に届く様な事は、たぶんもう無いのかもしれない。


ゲームは一日一時間。

誰に言われないでも、それが夢から醒める時間になってしまった様だ。


nice!(1)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:ゲーム

食糧問題てんこもり [コラム]

ソネットブログもmixiもピークタイムはだめやん。

えーと、全然勉強してないし、人の受け売りばかりだけど、情報産業がある程度成熟してきたら、次にニッポンがマジメにやらなきゃいけないのは、農業をはじめとした食料の問題かな?とか報道ステーション観てて改めて思った次第。

考えてみたら食べる事って人間にとって最も根源的な大切な事なのに、この国ときたら、なり手はいないわ、制度は動脈硬化起こしているわ、自給率と来たら半分切ってる訳だからね。
それでいながらこの前の「あいのり」で珍しく(なのかな?)マジメにやっていたネタとしては、先進国が食べ物で溢れているのは、アジアやアフリカ、南米などの貧しい国で嗜好品やら食肉用の穀物なんかをバカバカ作らせて、エネルギー効率の滅茶苦茶悪い肉を生産するため莫大な穀物を焼畑なんかやって消費してる横で農地での仕事を追われた人たちは貧しくて飢えていたりする訳ですね。
で、視点を変えて海で海産物取ろうとすれば沿岸部で捕れるものとか、食物連鎖上位のマグロやクジラからなんかは有害化合物や水銀物質が蓄積しまくりな訳で、年寄りと金持ちは寿司食って毒溜め込んで死ねやと言わんばかりの状態に自ら追い込まれている(毒入りの大問題発言です)

食い物問題、ヤバイよ。まじヤバイ。

昔旅先で知り合ったベテランの旅人の女の子が言っていた言葉でいまだに残っているのが「私の人生の最終目標は自給自足です」って言うのがあったけど、なんかなるほどなあ。といつも思うんだよね。
ああ、もっと言いたい事あるし、まとまってないけど、駄目。眠いです。今日はリハビリみたいなもんですね。寝ます。
nice!(1)  コメント(2)  トラックバック(0) 
共通テーマ:グルメ・料理

地球大進化 [コラム]

http://www.nhk.or.jp/daishinka/
NHK特集でやっている地球大進化の5話を途中から観たのだが、鼠の様な小さな樹上生物からサルへと進化したくだりをやっていた。地球考古学や地学や、進化学といった様々な角度からのアプローチが非常に面白いのだが、いつも見ていてちょっと不満が残る、いつも番組のまとめに入る部分の結論が強引というか思想的なバイアスがかかっているというか、そういう匂いを感じてしまう。

今回の内容はこんなものだった。肉食動物を避ける為に小さな樹上で過ごしていた小動物が、あるときマントルの働きによって地球の温暖化が起き、それによって樹木が生い茂った事で、木から木へ飛び移れるようになった。
それに伴って進化したのが目、周囲を見渡すように顔の両側に付いていた目は、木から木に飛び移る樹上生活に適した立体視が出来る様に顔の前面に並ぶ。更に、網膜内の視点の中心に視細胞を集中させ、視力を進化させる。視力が進化し、顔の筋肉が複雑に進化した事によって、表情によるコミュニケーションが可能になり、次第にココロが生まれ社会性を持つ様になると…。

ところがこの先のシナリオがちょっと引っかかったのだ。

実は他の類人猿は激しい抗争によって社会を成り立たせている為、争いの際敵に視線や表情を見破られるのは不利なためか、類人猿はヒトを除いて全て白目が無い。

ところが、人間には白目がある、これは人間独自が獲得したものだ。ではなぜか?なぜ人間は白目を持ったのか?
白目や表情は自分の感情や誰を見ているか?といった情報を周囲に知らせる事になる。これによって人間はより高い社会性を獲得していったのではないかというのだ。
とりあえず白目が先か社会性が先かは鶏とタマゴの話と同じで因果関係はわからないけど。

実はコレ、えーホントかよ~とか思った。なんか都合良すぎない?その説は、ってね。

でも、調べてみたら確かにそういう説があって
http://www.ieice.org/jpn/books/kaishikiji/199906/19990601.html
科学的なアプローチがなされている。
でもなんかフに落ちない。って最初は考えいて、なんか気に食わない為の理由探ししてたら「コレって以外に説得力あるかも…」って結論になっちゃった(笑)

実はイルカやクジラの目も横に切れ長でヒトと同じ様な白目があるんだよ。確かに奴らも高い社会性持ってて、しかも透明度の低い海では黒い瞳と白目って確かによく目立つだろうね。彼らには表情を作る筋肉は無いけど、エコーロケーションといった声がよく発達していて、イルカやシャチなんかはかなり高度な鳴き声のコミュニケーションをしている。しかも固体や群れごとの名前みたいなものもで互いを呼び合っている位だから、そんな生き物にとって、互いが近づいた際のコミュニケーション手段としての白目って確かに重要かもとか思っちゃった訳。

じゃあ俺は何が気に食わなかったのか。

たぶんねえ、俺がフに落ちなかったのは「だから人間は本来平和な生き物なんだよ」といういかにもNHK的な番組の落し所なんだろうね。

なんというか、本来科学番組であるにもかかわらず、結論に作り手の主観や主張が入り込んでいる、しかもそのメッセージが空々しく浅はかで、しかもあざとい気がして…。
だってヒトは今までもそして今日も散々殺し合いやって来てるじゃない。まあサルも子殺やレイプや共食いするけどさ。
結局、進化の歴史って結局食うか食われるかの競争を勝ち抜いて来た歴史な訳で。進化の過程で身に付けた「他を出し抜いて自分の遺伝子をより多く残す本能」は生き物本来の性な訳で…。そこをまるで無いものとして語るのはヤッパいかんよ。俺達は平和を目指そうとする意思は持った方がいいけど、争う本能を本来「無い事」にして語るのは間違いだと思う。

そういう部分をまるで無かった事の様にして、まるで科学で人間は本来平和な生き物だという事が証明されました。的な情報バイアスがね、なーんか嫌でね。

最初の頃は番組のナレーションで弱々しい海のナメクジみたいな奴の事を「アナタの祖先」とか言ってた訳で、科学番組として非常にいい言葉だと思うし、CGや綿密な取材によって科学的な検証で構成する作りもステキだけど、最後にうって変わって、進化の帰結としてヒューマニズムたっぷりの「子供の笑顔」や「民族衣装を着て幸せそうに踊り笑う少女」なんかをオチに持って行っちゃうあたりに、拒否反応を示してしまうんだろうね。

ま、単なるひねくれ者です。


脳と体の密接な関係 [コラム]

さっきテレビで長生きしているお年寄りの脳を科学的に検証する番組をちらりとみた。
一般的に人は歳を重ねると次第に脳が萎縮し、脳の神経細胞のネットワークが疎になっていく。これが病気として顕著な症状として表れるのが、いわゆる痴呆症の状態。日常の些細な記憶から次第に過去に遡るように重大な記憶が失われて行き、やがては日常の行動すら一人で行えなくなってしまう。

ところが100歳近くても元気なじいさんばあさんというのが多くいるのだが、そういった人の脳をMRIや脳の活動測定器などで調べると意外な共通点が見られたという。どの脳にも全体として萎縮が見られるものの、多く歩く事を日課とする人は歩行をコントロールする脳の部位が、また三味線の演奏を毎日行う人の脳には右手担う脳の部位が、それぞれ発達した状態になっており、萎縮を免れているというのだ。そしてこれらは若い頃から持続した結果ばかりでは無いというのが驚き。つまり歳をとってから何かを始めても、脳は十分発達をするというのだ。

極端な言い方をすれば体を使えばそれだけ脳は発達する。もっともそれは体をコントロールする部位というだけなんだけど。

ところが調べた人達のもう一つの共通点として、オデコから生え際の上あたりにある前頭葉という部分も共通して萎縮を免れているというのだ。

実はココ、高度な知的活動である思考や記憶、会話や創造性といった処理に関わる部分なのだ。

そして歩行などの運動をする事で、脳には神経細胞同士のネットワーク活動を活性化させるBDNFという成分が分泌されるのだそうだ。で、どうも脳を盛んに使う部位にそれが作用する事で、幾つになっても脳は発達する可能性があるという訳。番組に出ていたじいさんばあさん達は、幾つになっても体を動かすし、なんだかとってもチャレンジャー精神に溢れた人ばかりだった。

ただしこのBDNF楽しんで運動を行わないとうまく分泌されないらしいよ。

そして知的な活動を行う事で脳はどんどん発達する。ちょっと難しい課題に取り組んでいる時、前頭葉は活発な活動をし、結果的にその部位の発達を促す事になるそうだ。
問題に取り組み解決して快感を得るという行為は、確実に脳を発達させている。
つまり脳は別にみのもんたに頭の良くなる食べ物を教わらないでも、自らの意志によって発達させる事が出来るのだ!むしろ日常に何の疑問も好奇心も持たず、ただ感受して生きている生活は脳に刺激が無くボケ易い、という話がより現実味を帯びてくるよね。

但しあんまり難しい問題を抱え込んじゃうと、脳は考えるのを放棄するかのごとく全く活性化しなくなるという。自分のキャパシティを超えた難問に悩むというのは、実は考えていないに等しいって事らしい。まさに「下手の考え休むに似たり」

だから自分に合ったレベルの課題に取り組むというのはとても大事な事なんだね。と、納得してちょっと気分がラクになった。
あんまり難しい事、今の俺には無理無理、と開き直れるもんね。

と、まあなんだかんだ言っても最近運動といっても自宅から駅までの10分の自転車往復程度。キータイプで文章作成能力と、指先の動きを司る部分ばかりが発達しようにも、肝心のBDNFが出ないんじゃ、ちょっとマズいかな?とか考えて、真剣に運動不足解消の策を講じる事を考え始めました。


ところでちょっと前に騒がれた「ゲーム脳の恐怖」とかいうアレと繋げて考えたい事があって、今アマゾン見たら大笑いした。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4140880368/249-4858941-8312325
読者評価が見事に最低の「1」ばかりが並んでいて、ほとんどの人がその評価を「参考になった」って言ってるって…。ある意味素晴らしい評価だよなあ。
「これだと、ゲーム脳ってまんざらアホ理論でもないんじゃないかな?」とかチラっとでも考えた自分自身がアホらしくなっちゃったんで考えるのやめやめ。

しかし、この本の出版社がさっき見たテレビ局と同じ出版社ってどういう事よ。もしかしてこんなキチンと検証を行っている風で希望の持てる様な話もマユツバなのかよ!と、勘ぐってしまうよなあ。

結局今回はテレビで見た事そのまま書いただけになっちゃった。
脳使ってないなあ。


nice!(1)  コメント(1)  トラックバック(1) 
共通テーマ:日記・雑感

時間軸の輪と時間の始まりについて [コラム]

最近、時間の意味について考える事が多くなった。まだうまくまとまらないのだが、時間の概念そのものや人の意識の感覚というのは何か密接な関係がある様な気がしてきている。

こんなことを書くとまたトンデモ話っぽくなってしまうのだが、実は科学の世界でも、時間という概念は非常に大きな謎とされているのだ。科学雑誌Newtonで「時間とはなにか?タイムトラベルは可能か?」という興味深い記事が特集されていたので読んだ所、ますます訳のわからない事態になってしまった。というか、最新の物理学の世界、宇宙や物質、時間や空間の誕生を究明するという行為は、そもそも証明が出来ない想像でしか理論を詰められないので、かなり乱暴な言い方をすればトンデモ理論と大差が無いのだ。

どういう風に(一見)トンデモかというと、宇宙の誕生はタイムトラベルによって生じた時間の輪の中から宇宙が誕生したというのだ。「まっさかー」と思うなかれ、こんな話が真剣に議論されているのだ。

これまで宇宙というのは「無」から生まれたゆらぎによってある時点で急激に時空(?)が膨らむ現象から、続けざまに起こった超高温高圧の大爆発によって時間や空間、物質が生まれたという。つまりインフレーション理論からつながるビックバンへによって、宇宙が生まれたという説が一般的なんだけど。

でもこれだとそもそもの最初の「無」から「有」に移った状態を説明できない訳。
だって0はいくら掛け算をしても0だし、0だけの世界には足そうとするべき数字すらない訳だからね。そもそもこの「無の揺らぎ」とかいうのがもう訳わからん訳。「無」なんだからゆらぎもへったくれも無いだろうって話。ところが最近になって出てきたのがタイムトラベル理論。

つまり時間の「始まり」なんてものはそもそも無くって、最初は時間軸が同じ所をグルグルとただ回り続けていたんじゃないかという事らしい、とはいってもこの繰り返し現象って、5×10の-44乗秒という、とてつもない短い時間の単位なんだけど。

でも、これだと最初にあったとされる「無」という状態を考えなくてすむ訳で、ここからある時、ゆらぎが発生してインフレーションが起こってビックバンとなったと説明すると、上手く宇宙の誕生を説明できるらしい。しかもこの膨張時に、時空が枝分かれして、それこそ大友克洋先生の「アキラ」みたいに別の宇宙が幾つも出来ているんじゃないか?とまで考えられちゃうらしい。

凄いよね、俺ら素人からするとトンデモ理論とどう違うんじゃいって感じ。

しかも恐ろしい事に俺がぶっ倒れた時に考えた事に何となく似ているんだこれが。
実は意識がおかしくなった直後というのは、時間の概念が全くわからない状態で、物事の前後関係や時間の流れが頭の中で全く整理が付かないのね。これってもうとにかく体験してみなきゃわからない嫌な感覚なんだけど、ただ頭の中にバラバラでありながら核心に近い様なイメージばかりが大量に流れ込むというか、発見の連続の様な状態になっていて、何を発見したかは今じゃほとんど覚えていないんだけど、感動、発見、恐怖、性的快感、理解的超快感、絶叫、絶頂、静寂、黄昏、そして再び、感動、発見… という感情のループを描きつつ、ほんのちょっとづつ違った解釈や相違点があるような感情や思考のループ状態が延々つづいたのさ。
もう、ほんとタスケテー!って感じ。そしてこんな事が永遠に続んだと思い込んで、何とかしてこのループを抜け出そうとあがくけど、どうしても抜けられないみたいな状態になっていたんだけど、これと宇宙誕生の時間のループって何となく似てるなあとか俺は考えちゃう訳。

でも俺のようなトンデモ理論が、科学と決定的に異なるのは、科学というのは現状で観測される全ての現象を繋ぎ合わせて、全ての説明により破綻の少ない世界を作り上げようとする作業であるという点。俺みたいに体験によって導かれる方法論じゃなく、あくまで観測と証明によって、誰もがちょっと学びさえすれば納得できる答えを導くという点にスバラシさがある訳。

たとえば川原に転がる丸い石がどうしてそこにあるのかを考えてみると、川の中をたまに石が流れる事が観察できる訳。そしてこの流れる石と同様に、河の流れによって上流から流れてきた事が予想できる。そして元々は尖った部分があった石が川の流れで川を転がる際に、角が削られ小さくなって今の形に落ち着いたという事が予想できるわけだ。とても当たり前だけどこれって科学的な思考の基本な訳で、人間が周囲の条件や様々な現象からもっとも明解な答えを過去を予想して辿り着いた結論な訳で、問題にしている石そのものに、どこから来たのかと尋ねている訳じゃないのだ。

ところがその石そのものがいつどういった道筋で河を転がって来たかは、正確にはわからない。だってその石が転がって来た道筋を見ていた訳じゃないんだから。でも川の上流に石と同じ模様の岩があって、その岩がガケ崩れでバラバラに砕けていたりすると、人間自身が「ここの岩が崩れて、川を流され削られてあの川原の石になったのだな」と誰もが納得の行くような予想を組み立てて一応の結論を導いている訳だ。

この石の話、実は小学校低学年の頃、理科の時間に教育テレビでアヒルの子供が僕に教えてくれた科学的な思考方法、つまり帰納法の基本ね。

宇宙の始まりを考えるのも基本的にはこれと同じ、そして今のタイムトラベルによって始まったとされる宇宙の始まりの像に至るまでは、実に様々な紆余曲折があったのだけど、めんどくさくなってきたので続きはまた次回に…


やらないかも(笑)


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(1) 
共通テーマ:日記・雑感

カーシェアリング [コラム]

先日の記事を書いた直後、朝のニュースで知ったのですが、カーシェアリングというのが、国内で始まっているらしいよ。

なんでも一台の車を複数の人が会員制によって有効利用するサービスで、都心部の渋滞解消や環境問題に一役買えるのではないとして期待がされているそうだ。

テレビニュースでは自治体や大学が所有しており、買い物等の日常や、キャンパス内といった近場での利用が主な使用目的となっているらしい。

これの利用は予約制。ネットで予約状況の閲覧や予約ができる。(一部携帯も対応)
そして驚いたことにこの車、鍵は使わない。会員に配られたICカード、つまりJRのsuicaみたいな奴を、車のウィンドに取り付けられた読取装置にかざすだけでロックが解除されるのだ。そして予約時に表記された暗証番号を入力すれば、エンジンがかかるという訳。
かあっこいー!なんだかハイテクって感じ~?(死語)

これなら車の総数が減り、渋滞緩和にも繋がるというので、地域からの補助金も出ており、利用料金もレンタカーに比べるとかなり安いらしく、モノによってはなんと15分¥105~で利用できるそうだ(但し会費は別)


おお、これはスゴイ!まさに俺が想像する未来の日常でのモノの使い方じゃないか!という感じで興奮してニュースを見ていた。

そしてこの記事を書く前にこんな記事に辿り着いた。

カーシェアリング「快走」へ道半ば NPO
http://mytown.asahi.com/fukuoka/news01.asp?kiji=6964

電気自動車を導入するというアイデアはやはりというべきか。
しかし、個人として車を所有したい、という保有志向が根強く利用者は伸び悩んでいるそうだ。

まあそんな感じで、この辺のヒトの業みたいな所有欲は、時代が進むに連れて多分贅沢な事になってゆくんだろうと、他のいろんな事からも私は勝手に推察していますが、それはいずれ別の機会に語るとして…。

さらに話は飛ぶけど日本て家が狭いせいか、車をやたらとカスタマイズする民族だよね。性能アップの為かレーシング仕様風に車の外や中を改造したり、内装を自分の家の延長みたいに居心地良くいろんなモノ持ち込んだり、アクセサリーに凝ったり、カーナビやオーディオに凝ってみたり…。だからというか、多分そんなんだから、皆共有に関しては腰が引けるんじゃないだろうか。

閑話休題

ところでこのサービス、多分いろんな企業や団体が他の様々なアイデアを練っているんだろうけど、私もこれみて思いついた事があるので、いくつか散文的にまとめてみます。

サイトの記事にもあったけど、電気自動車やハイブリットカーのメーカーが主なスポンサーに付き、環境問題に取り組む姿勢を社会にアピールする為、地域や自治体に安く車を提供する。

また、実用化を目指す試作段階の燃料電池自動車を使っても良いだろう。(一応安全が確保されたもので、データ取りを前提とした位の車)これなら新しいもの好きの人が喜んで利用してくれるかもしれない。

但し車はボディ全体はバス等と同様に派手目のカラーリングにして、宣伝カーにしてスポンサー料を集めても良い。利用者は多少恥ずかしいけど、これならより安い料金で利用できるし、広告企業や車メーカーにとっても良い宣伝になると思う。

さらに派手な見た目の車をもっと多くの人が気軽に利用できるように、一部の地域内ならどこでも乗り捨て自由にしてしまう。利用者は利用が済んだら空メールを管理センターに送る事で終了時間を申告し、料金の精算を行える仕組みにする。

さらに車に搭載されたGPSによって、車の現在地は常に把握されている。
これで乗り捨て位置が常に管理センターで把握できる解る様になっている。

ネットや携帯サイト等で、車の検索を行えば、自分に一番近い車の場所が把握でき、場合によっては現在の利用者との電話による直接交渉等で、車の引継ぎが行える様にする。(車の電話はハンズフリーですね)

この他、車の燃料残量や距離データ等も常に把握し、燃料補給に付いては、利用者自らが行えば、利用料金を割安にできるような措置を取る。

もちろん全車カーナビ装備。

こんな感じでシステムを作り込めば、利用料金の一部を電気スタンドや燃料電池スタンドの設置運営の費用として捻出できるし、環境にもやさしいし、渋滞も軽減できる。

いろいろ問題はありそうだけど、企業と行政が一体になってやってみるのも面白いかもしれないね。

スイスかドイツでは…。
いや日本でも、もうやってそうだね。


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

軌道エレベターを作る前に [コラム]

まっすぐ天へ行く前に、しておかなきゃならない事がある。

それを話す前にキドウエレベーターとはなんぞや?という方に。

ロケットで宇宙に行くには莫大なお金とエネルギーがかかるし、ちょっと…というかかなり危険だ。そこでかなり馬鹿馬鹿しいというか、コロンブスの卵的な方法が軌道エレベーター。
要は宇宙まで伸びた長ーい紐で宇宙まで登る装置です。
でも地球は回っているし重力がある。じゃあどうやって固定するんじゃい?と思う方はコチラを参照して下さい。
http://www1.accsnet.ne.jp/~thoshino/Space-elevator1.html

つまり潰れる力がかかる塔を建てるんじゃなく、引っ張る力がかかる宇宙から吊るす紐な訳。ところがこれには物凄い力がかかって、あんまり長くすると現代のどんな素材でも、自らの重みでブッちぎれてしまう。ところがこれまでの常識を覆す強い物質が作れるらしいというのだ。それが上記のサイトにもあるカーボンナノチューブ。炭やダイヤモンドと同じく炭素(C)だけで出来た物質で、原子の蜂の巣状の構造がチューブ状に伸びたもの。
http://www1.accsnet.ne.jp/~kentaro/yuuki/nanotube/nanotube.html

実はこいつの安価で安定した材質の加工方法さえ確立できてしまえば、事実上軌道エレベーターを作ってしまえる科学力と技術力を人間は既に持っている訳ですよ。
SFみたいな話だけど十分実現可能なところまで本当にあと一歩まで来ているらしいんだな。

そんな軌道エレベーターの現状を巡る話はココに詳しく書いてあるんですが、
http://hotwired.goo.ne.jp/news/news/20030210302.html

ただねえ、実際こんなモノ作ったとしてどんなメリットがあるの?っていう根源的な問いもある。

でも、世界のエネルギー状況を考えると、この前言ったみたいに
http://sakamata.sweetbox.ws/archives/57008.html
宇宙で太陽発電を大規模に行って、それを地上に送る事でかなりの電力はまかなえると思うんだよね。しかも軌道エレベーターならそれこそ、通電性の高いカーボンナノチューブで直接地上に電力を供給出来そうな気もするしね。

それに多くの人間を宇宙に送って宇宙空間から地球を眺める事で、その人達の価値観を良い意味で揺さぶる事が可能だと思うんだよね。今まで宇宙から直接地球を眺めた宇宙飛行士は、そのほとんどが価値観を大きく揺さぶられて、とても謙虚で何かを悟ったかの様になってるって話、よく聞くでしょ。そういう意識改革的な事を一気に推し進める事が可能だと思うんだよね。

でも、それをやる前に考えなきゃいけない事がある。
テロリズムの懸念だ。

もしエレベーターに飛行機で突っ込まれたら?エレベーターの中で爆弾が爆発して、このとてつもない長さの丈夫な紐が切れってしまったら?恐ろしいことになるのは何となくわかるよね。
(実は地面に近い場所を切ると、上の方は全部遠心力で宇宙に放り出されて、地球にはあまり被害は無いけど、ある程度の高度で切れるとそこから下の紐は全部落ちてくる、これは危険だ)

これまでの大国が上から押さえつけるような物事のやり方ではテロは絶対に生まれてくるし、資本力にモノを言わせて巨大建造物を作り、自分達の利益のみを追求するやり方では、不満を抱く人が破壊活動を行わないとは限らない訳だよね。

結局現代社会の大きな問題であるエネルギー問題と貧困と無知がテロを生み出していると思うし、今のままじゃ悲しみの連鎖は断ち切れないと思う。だからこそ軌道エレベーターを作る前に不幸な世の中を何とかしなきゃいけないのだけれどね。

逆に言えば軌道エレベーターを作る事で、宇宙発電エネルギーなんかを貧しい国に優先的に提供したり、貧困や教育の行き届いていない人を優先的に宇宙に送る様にすれば、少しは良い世の中になるのかな?

もし軌道エレベーターが作れたとしても、一部のお金持ちの人たちの為だけのバベルの塔であっては欲しくないよね。


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:アート

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。